2023/06/13【読書】『泥の文明』

きっかけは、「あとがき」

 

こちらの『海岸線の歴史』のあとがきで、

 

伴走してくれたのは、本書の刊行元ミシマ社の三島邦弘さんである。

三島さんはかつて、わたしの『砂の文明・石の文明・泥の文明』(PHP新書、2003年刊)の編集を担当してくれたが、その「泥の文明」のインドにふれた箇所を読んで、

「どうしてもインドに行きたくなった」といって、出版社をやめてしまったひとである。

 

とあり、インドに行きたくなるほどの内容ってどんなのかしら、

と思って、『泥の文明』という本を手にしました

 

ちなみに、著者によると、

ヨーロッパは「石の文明」、

アジアは「泥の文明」、

アラブは「砂の文明」とされています

 

 

安田喜憲さんは「砂の文明・石の文 明・泥の文明」への書評を、次のように締め括ってくれた。

 最後に終章として文明としてのインド再発見がとりあげられている。人間はこの土地に生ま そして大地に帰っていく存在であることを認識し、この地上の生きとし生けるものとともに 生きして死んでいくことに幸福をねがう「泥の文明」の理念こそが、これからの新しい文明 の中にいかされなければならないと(松本は)説く。すでに評者は近代文明は生きる喜びを倍 増させたが、死ぬことは恐怖であり、きたないもの不潔なものという観念を植え付けたが、イ ンド文明はいまだに死ぬことの喜びを有している文明であると指摘した (松井孝典:安田喜憲 「地球文明の寿命」 PHP、2001年4月)が、まったく同感である。 二一世紀の文明の未来、とりわけアジア人としての日本人が選択すべき未来の文明のありか を考える上で、本著はまことに魅力的で示唆に富む名著である。ぜひともご一読されること をお勧めしたい。

 

アジアの「湿潤」は、たしかに自然の大いなる恵みであり、豊饒の根源でもあるが、これがと きによっては「自然の暴威」ともなる。このことは、インドの、水を象徴するカーリー女神(= ドゥルガー女神)が「創造の神」であるとともに「破壊の神」でもあるという二重性をもっていることによっても証明されるだろう。いや、日本でも、水神や龍神は豊饒をもたらす水の神であ るとともに、洪水や田畑流失をもたらす荒神でもある。それゆえに、大いに敬い、大いに畏れな おそ ければならないのである。

 

日本や中国に「土に還る」人間、というイメージがあるとするなら、インドには「水に還る」人間、というイメージがあるのだろうか。そしてこれらは決定的に異なるものなのだろうか。

 なるほど、中国では墓地として土まんじゅうを作り、この土に人間を葬るという伝統がある。 そういう土葬の方式は、日本では明治になって外国船の渡来によって伝染病のコレラ(当時は虎列刺=コロリ)が入ってきたため、法律によって火葬が強制されるようになった。ただ、日本の 一部には、インドと同じく、水葬という方法もながく残っていた(沖縄には、風葬という方法も ある)。

 

 『暁の寺』において、三島はヒンドゥー教における聖なる水の意味をこう捉え、それが宗教都市 バラナシーという聖なる場所において極まっている、と説明を加えるのだ。ヒンドゥー文明にお ける「水」の究極的価値と宗教都市バラナシーの位置づけをよく認識したもの、といっていい。 このあたり、三島の明晰な知性をよく物語っている。

 

アメリカはハードな部分が得意、日本はソフト面が得意という話から)

 

こういった「もの作り」の文化が、日本そして東アジアの「米づくり」ー精妙な水田づくりや陶磁器づくりーと密接に結びついていることはいうまでもない。いま世界で陶磁器から応用されたセラミックス技術の最先端を走っているのは、日本や台湾や韓国など、陶磁器づくりに精通した国々である。

 そういえば、そのセラミックスのなかには半導電性を示すものもあるが、半導体の生産は欧米よりも、日本や韓国、台湾、中国、マレーシアなど、長年「田づくり」に微妙な精度と、その土から不純物を排除することに努力してきた国々ばかりである。

 

インドでの生活を思い返してみると、

水道代って払ってませんでした

 

家賃に含まれていたのかもしれませんが

 

ある日インド人女性が私の部屋に泊まりにきたときに、

お礼にといって、トイレや洗面台があるところを掃除してくれたのですが、

ものすごく水をつかって掃除していたのが印象的でした

 

奈良にある集落にもいってみて、

三島由紀夫の小説も読んでおこうと思ったりした

今日この頃です