2023/06/14 【読書】『地球文明の寿命』

昨日の書籍のなかで紹介されていた内容が気になって

 

『泥の文明』という書籍のなかで引用されていた内容が気にあり、

手をとりました

misogi21.hatenablog.com

 

2000年の対談をまとめたものです

 

 

以下はすべて後半部分の引用です

 

アジアを問題の中心として考えたとき、二一世紀の前 半は中国で、後半がインドだろうと考えています。

共産主義政権の中国が市場経済化の流れの中でどこまで政権を維持できるかは問題ですが、私が期待しているのは、中国がゆるやかな連邦制をとることです。各省にもっと自治権を与えると、意外と中国はよくなるかもしれないと思うのです。

(中略)

 

中国人というのは、「乞食」でも一度は中華帝国の皇帝になる夢を持つと言われるくらい なので、小さな連邦制では満足できないのかもしれません。

 一方、二一世紀の後半に問題となってくるであろうインドでは、事情が異なります。たしかに人口問題や環境問題は起きてくるでしょうが、インドにはカースト制があります。 インド社会があれだけの人口を抱えながらもなんとか成り立っているのは、カースト制の ためではないかと思うのです。案外、二一世紀後半の社会は、インド的な世界になるのではないかとさえ思います。

  不思議なのは、インドに行くと心が癒されることです。それは、中国と対照的です。中国に行くと、人間の欲望の深さとは何だろうと思います。まるでパンドラの箱が開いたように、中国の人々は欲望のかたまりとなって動いています。

 

(中略)

  それが、インドへ行くと違います。インドの人々の欲望は、浅いのでしょう。たとえば、道路に牛が寝そべっていても、誰も追い立てようとはしません。畑を荒らしても野菜をバリバリ食べても、放ったらかしです。インド人にとって牛は神様の使いなのですから、怒れないのです。

 牛が死にかけていようものなら、インド人は一生懸命、水をやります。子牛が歩けなく なったら、その子牛を背負って、人間が道路を歩くのです。私は、そんな光景を何度も見 ました。インド人には、人間以外の動物への優しさがあります。

  たしかにインドのカースト制は厳しいもののようですが、インド人の心根には救済者のようなものがあります。私はボンベイへ行ったとき、日蓮宗のお坊さんが修行しているところを訪ね、いろいろと話を聞きました。その話によると、カーストのもっとも低く、明 日食べるものにも困っているような人でも、お坊さんにはお布施をするのだそうです。こうしたことは、中国ではありえないことです。インドがもし二一世紀にも伝統的文化を持ち続けていれば、世界の救済者になるのではないかとさえ思ったものです。

 

 インドの話を聞いて思うのは、ストック依存型人間圏の存続は、人権といった条件を撤廃すればありうるということです。インドのカースト制には、人権といった概念はありま せん。豊かに生きる人はやはり豊かに生きるし、貧しい人は貧しいままに生きる。このやり方でいくなら、地球で一〇〇億人が生きることもできるかもしれません。 

(中略)

  またインドが救済者となるのは、難しい話でしょう。インドはヒンズー教の人々が多くを占めていますが、ほかにもイスラム教徒や仏教徒もある一定数はいます。もともと宗教の違う人が、ヒンズー教一色になるのはありえません。

 それに、インド的な食生活にわれわれが満足できるかです。一九九〇年レベルで、アメリカの一人当たりの年間消費量は八〇〇キロです。日本の場合、四〇〇キロでも れがインドになると、年間二〇〇キロになります。アメリカ人がインド的な食生活をする なら、たちまち四倍の人が生きられる計算になります。しかし、そうなることは現実には不可能でしょう。

 

 

 

最後のほうに書かれているインドのことばかり印象に残りましたが、

全体の容量を増やさない「レンタルの思想」など、2000年ごろの話で

こんなことが話されていたんだと興味深く読みました

 

2000年の対談後に、インドの調査に出向いた著者の安田氏は、

「インドの人々の心根は静かだった」「インド人はまだ近代物質文明の欲望には目覚めていないかのようだった。いやそれを回避しているかのようにさえ思えた。その欲望を回避させているものの背景には、やはり文化と宗教が深く関わっているというのが私の印象だった」とのことですが、

それから20年以上たって、ネットが普及したいまでは、

若い人はどこの国にでもいるような感じに見えるんじゃないかと、

昔のインドに思いをはせたりする今日この頃です

 

まだまだ人生がんばろ〜