カメラのたのしみ

2003年−2008年ぐらいの海外旅行の写真はCD−Rに焼きつけて6−7枚持っていたのですが、ものを減らすために写真のデータをGoogle Map へすべてアップロードしました

2011年に陸前高田市で写真の修復作業にボランティアとして参加しました。

当時の記事はこちら→東北震災ボランティア@陸前高田編

当時は初めての海外での仕事、初のインドが迫っておりましたので荷物を減らすことに精一杯でした。

さらに、写真修復のボランティアの影響もあって、かなりの写真、本はデータ化して、外付けのハードディスクに保存しました。このとき、かなりの量の本をスキャンして「自炊(自身で電子データをつくること)」しましたが、ほとんどそれらの本は読んでいません!

2018年の年末、そのハードディスクのデータは私の操作の勘違いによりすべて消えてしまいました。ソフトウェアを購入して復元はできるようなのですが、実施していません。本はまったく読み返していませんが、写真についてはやや心残りがあります。

今回、CD-Rに保存した写真を見返しても当時の思い出が鮮明に思い出される・・ということはあまりありません。

しかしながら、保存している「写真」の光景は「記録」として私のなかに保存されています。

この「記録」もいつか私の記憶の引き金になるかもしれないので、写真は取っておくつもりです。

「カメラのたのしみ」(矢内原伊作『話しながら考える』1986年より)

いい写真を撮るには、被写体をよく見ることが必要である。 被写体として見るのではなく、 自分がカメラをもっていることを忘れて、風景に感動したり人間に接したりしなくてはなら ない。 風景や人物を撮影するのではなく、自分の感動を撮影するのだと思わなくてはならな い。 カメラを離れて現実の経験に没入し、感動があった場合にそれを記録するためにカメラ を構えるのである。それはメモをとったり日記を書いたりするようなものである。私たちは 日記をつけるために生きているのではなく、生きたことの結果を日記に書きこむのであり、 カメラも同様だろう。 記録にあたいする経験、日記に書くに足りる感動がまずなければなら ない。感動があれば、それを記録し表現するために注意深く撮影する。それは日記を注意深 くいい文章で書こうと努力するのと同じである。 そしてまた、感動を表現するために被写体 注意して見れば、それによって対象がいっそうよく見えてくる、ということもあるだろう

(略)

写真は現実を思いおこすためのメモあるいは日記のようなものなのだから、それによって 記憶を新たにし感動を豊かにするために利用しなければ意味がない。 そこで整理ということ 大事になるが、これがなかなか容易ではない。近頃はビニールを利用した便利なアルバム や整理ケースがいろいろあるが、それでも自分でよほど工夫努力して整理しないと、どうい うときの写真かがわからなくなったり、うつっているのが誰だかわからなくなったり、必要 な写真が見つからなくなったりする。とくに重要なのはネガの整理である。そのかわり、整理がよくできていて、見たいと思う写真が簡単に見られたり随時に焼増しがで きたり、というであれば、たのしかった過去にくりかえし遊ぶことができる。これは大きな楽しみである。

Google Map にアップする、ということもできたらなぁ・・・