小林秀雄・岡潔氏の「人間の建設」の最後に紹介されていたタイトルです。
人間の建設 (新潮文庫) (2010/02/26) 小林 秀雄岡 潔 商品詳細を見る |
ちょうど、この本のあとがきに感想をかいている茂木健一郎さんのブログで、
似たような内容のことが書かれていて、とっても腹に落ちました。
「勉強するということ」
(略)
先生 「そうだよね。不思議に思うよね。普通は、君みたいに、小さな子どもでいる時が、いちばんやわらかいと思う。そうして、勉強して色々な知識を詰め込むと、だんだん硬い人になってしまう。そう思うかもしれないけれども、実は、勉強をすればするほど、やわらなくなる方法があるのです。名付けて、忍法、ふにゃふにゃの術。エヘン。」
子ども(目を輝かせて) 「へーえ!」
先生 「君も、たくさん勉強して、ふにゃふにゃになる方法を知りたいだろう。」
子ども 「知りた~い!」
先生 「そうだねえ。その前に、なぜ、勉強するとやわらかくなることができるのか、そのことについて、ちょっと考えてみようか。」
子ども 「うん。」
先生 「ちょっと待った! そう簡単に、先生に答えを聞いてはいけないよ。まずは、君が、どうしてなのか考えてみて下さい!」
子ども 「えーっ!」
小林 : 「(略)古典はみんな動かせない「すがた」です。その「すがた」には親しませるということができるだけで、「すがた」を理解させることはできない。とすれば、「すがた」教育の方法は、素読的方法以外には理論上ないはずなのです。(略)」
岡 :「(略)ところが知らないものを知るには、飛躍的にしかわからない。ですから知るためには捨てよというのはまさに正しい言い方です。理性は捨てることを肯(がえん)じない。理性はまったく純粋な意味で知らないものを知ることはできない。つまり理性の中を泳いでいる魚は、自分が泳いでいるということがわからない。」
小林 : 「お説の通りだと思います。」
私、年齢がもう三十路に入っていますので、
素読が有効な年齢はすぎているんじゃないかと思いますが、
声に出して読むのって、とっても脳にいいような気がします。
それを自分でまた聴くのも悪くないです。
以前は自分の声を聴くのは恥ずかしかったのですが、
まったく恥ずかしさは感じません。
他人の声を聴いているような感じです。
他人の声のような感じだけども、
自分の声とわかっていて、その声が心地いいのです。
これで、声まで改善されたらなぁと思いつつ、、
しばらく、声に出す、を続けようと思います。