自分の心の声にチューニングする、『はじめて考えるときのように』

最近、哲学とか生物とかの本を読むことが増えてます。

だんだん読書も本質に迫ってきている感じ(と自己評価)。

はじめて考えるときのように―「わかる」ための哲学的道案内はじめて考えるときのように―「わかる」ための哲学的道案内
(2001/02)
野矢 茂樹

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学生時代に野矢先生の「論理トレーニング101題」使って勉強してました。

最近は、ロジカルシンキングの本がたくさん出ていますが、当時はそ~んなに学生の私に目に付くものはなかったんですが・・・。

まぁ、あれから10年以上たっても、

ロジカルというよりは、感覚のみでやっちゃってる自分に反省も加えつつ、

「はじめて考えるときのように」を読みました。

イラストがはさんであって、

物語としても楽しめますよ。

ページがFEBRUARY 18 とかなっているのですが、

最後にそのわけがわかります。

*****************以下 本文より抜粋

「考える」っていうのは、耳を澄ますこと、研ぎ澄ますこと。

だから考えている間中、その人は考えてない人と同じように行動していい。

いろんなことをして、いろんなものを見て、いろんなことを感じて、いろんな思いがよぎる。ただ違うのは一点、「あ、これだ!」という声にその人は耳を澄ましている。その一点だけ。

答えの候補が現れたとき、いつでもぼくはそれをつまかえられるように、「チューニング」している。

すべてを「あるがまま」で受け入れるというのは、それはただ秩序を放棄することでしかない。

完全な秩序のうちに生きているのでもなく、さりとて秩序を求めずに生きることもできはしない僕たちのまえに、たえず問題は現れてくる。

論理は前提から結論を導く道筋にかかわる。

前提と結論それ自体の正しさは論理の正しさとは別。

ことばがなければ可能性はない。

考えるんじゃなくて、感じることに鋭敏になること。

でも考えることは、その感じを越えて、新たな関係、新たな意味を求めることだ。

現実べったりで可能性の世界がないならば、考えるということもない。

だからことばがなければ考えられない。

「自分の頭で考えるというのはまちがいで、頭の外で考えたり、ひとといっしょに考えたりするのじゃ」

考えるということは、実は頭とか脳とかでやることじゃない。手で考えたり、紙の上で考えたり、冷蔵庫の中身を手にもって考えたりする。

それから自分ひとりで考えるのでもない。たとえ自分ひとりでなんとかやっているときでも、そこには多くの人たちの声や、声にならないことばや、ことばにならない力が働いているし、じっさい、考えることにとってものすごくだいじなことが、ひととの出会いにある。

問題を抱えて頭の中にひきこもるんじゃなくて、問題のまなざしで自分を外に開いていくこと、そして観察や手作業や、あれこれ試してみること。あれこれあるのは、頭の中じゃない。頭の外に、「ヘウレーカ」の呼び声を待つあれやこれやがある。そうしてぼくらは、頭の外で、考える。

つめこんで、ゆさぶって、空っぽにする。