読みながら大いなる反省。
結局、自分の視点を通さないと本質は見えてこない。
以下本から抜粋。
サルトル―失われた直接性をもとめて (シリーズ・哲学のエッセンス) (2006/01) 梅木 達郎 商品詳細を見る |
認識するものと認識されるものとを分かつなにものも存在しない がゆえに、意識は絶対的な近さにおいて対象にじかに即してあり、対象になにも付け加えることなく、ただその存在をありのままに開示するものです。つまり意識に直接与えられる世界は真実そのものとみなされなければならないのです。
対他存在への自己の変容。
わたしにとって他者は、わたしの意識をはみ出すもの、私の視野の死角、わたしの自由の否定としてしか現れない。
否定は否定されたものを逆に鮮明に主題化するのです。
他人との直接的関係をもつことを諦めること。
他人との真の関係はけっして直接的ではない。
すなわち作品を媒介とした関係。わたしの自由は相互承認を含んでいる。しかし、ひとは自己を与えることによって自己を失う。気前のよさ。愛。私の対自とわたしの対他の新たな関係。
贈与と言う名の支配
「純粋なる贈与は不可能である」ジャック・デリダ
「私はあなたが存在することを欲する」ハイデガー
「全体をまとめあげるものはだれもいない。それは神に対してしか存在しない。だが神はいない。それでも戦争は損存在する」自由への道 サルトル
読みながらだんだんわからなくなってきた。
私がいつも思うのは、たとえばどこかに一人で出かけたときに、
「この光景は今自分だけしか見ていない」ということに対する違和感。
隣にいる人や家族に伝えたいと思うのにできない。
そして、自分がどんなにそばにいてほしいと思う人でも、
自分の知らないものを今見ているのだと思うと、嫉妬してしまう。
でも行動する。他人を知ろうとする気持ちをあきらめないぞ!
クロワッサン 2009年 8/25号 [雑誌] (2009/08/10) 不明 商品詳細を見る |
タイトルは、↑こちらの雑誌のなかで、フランスのシンガー(?)ジェーンバーキンさんがおっしゃってました。