「私を認めてください」というメッセージか、自分を知るという対話か

昨日紹介した「明けない夜はない」の本の中にはこんな言葉もありました。

「自分には、何もない。でも、これだけはやってきた」

そんな発言をよく耳にする。

人は、やってきたことを誇りにしたいのだ。

仮に、賞賛に値する何かを持たずとも、自分が誇れる最後の砦こそ、自分が生きてきた道のりなのだ。

だからこそ、人は自分がしてきたことを認めてもらいたい。

ブログがこれだけ流行るのは、それだけ多くの人が、自分の生きてきた軌跡、すなわち、自分の道を、他者に知らしめたいからだ。知ってもらいたいし、見てもらいたい。

「私はここにいる。私を認めてください」

ネットの世界には、そんな声がうずまいている。

それは、自分の誇りである「自分の道」を認めてもらいたい者たちの、心の叫びだといえる。

私、このところいくつもブログ記事あげてますが、

反省を込めていいますと、誰かのためのGiveになるために書いているのもの1割。

9割は日々の記録。

誰かに自分を知ってもらいたい、というより、

「なりたい自分になっていく、自分の過程を自分で知りたい」というのが、

どうにか一年以上続いている理由だと思います。

言うより、実践。

読むより、行動。

そう肝に銘じていきたいです。

私、誰かに話を聞いてもらいたくなったときは、

何度もあげている次の言葉のページを開きます。

「努力が間違っているかもしれないと不安だから、人に見て欲しい」とキミはいう。しかし、それは巧みなウソだ。ひとりでこつこつ努力することがつまらなくなったからに過ぎないということに気づけ。それが間違った努力であれば、必ず努力の過程でそれに気づけるし、正しい道を見つけることもできるはずだ。

石井裕之さんの「もちあるくことだま」より

結局よく話しますけどね・・・とほほ