場を読む力、山本七平『「空気」の研究』

民主党大勝ってことですが・・・・

こちらの本、以前紹介した飯田 泰之さんの本の中で何度か引用されていました。

(そして、私が前回飯田さんの本を紹介した翌週にBookloversに飯田さんが出演されていました。びっくり)

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))
(1983/01)
山本 七平

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こちらの本、1977年に書かれています。

なので、この中にでてくる例が

太平洋戦争や、イタイイタイ病など、かなり古いのですが、

今回の選挙がなんで大勝という結果になったのか、

よくわかりますねぇ(政治は詳しくないですが、興味はあります、人並みに。)

以下本文より(若干、本人の理解のため表記を変えているところがあります。ご了承ください)

「空気」とは何であろうか。

それは非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ「判断の基準」であり、

それに抵抗する者を異端として、「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力をもつ超能力であることは明らかである。

ではこの「空気」は、どのように醸し出され、どのように作用し、作用が終わればどのようにして跡形もなく消えてしまうのだろう。

これを探究するひとつの手掛かりは、だれかが、何らかの意図のもとに、ある種の「空気」を意識的に醸成した場合である。言いかえれば、議論が、議論そのものよりも、明らかに、議論によるある種の「空気」の醸成を狙っている場合である。通常「空気」は、このような人工的操作によって作られるのではなく、言葉の交換によって、無意識のうちに、不作為に、いわば自然発生的に醸成されるから「空気」なのだが、それは、ある種の意図を秘めた作為的な「人工空気」の醸成が不可能だということろではない。したがって、この「人工空気醸成法」を調べていけば、「自然発生的空気」の成立過程も少しはわかるであろうと思われる。

アメリカには「空気」がなく、日本には「空気」が醸成される、

空気=臨在感的把握

一口にいえば、臨在感は当然の歴史的所産であり、その存在はその存在なりに意義をもつが、それは常に歴史観的把握で再把握しないと絶対化される。そして絶対化されると、自分が逆に対象に支配されてしまう。

空気の訳=アニマ(ラテン語)→アニミズム、プネウマ(ギリシャ語)ルーア(ヘブライ語

対象の相対性を排してこれを絶対化すると、人間は逆にその対象に支配されてしまうので、その対象を解決する自由を見失ってしまう、簡単にいえば、公害を絶対化すると公害という問題は解決できなくなるのである。そしてこの関係がどうしても理解できなかったのが昔の軍部なのである。

空気の支配は、逆に、最も安全な決定方法であるかのように錯覚されるか、少なくとも、この決定方法を大して問題と感じず、そのために平気で責任を空気へ転嫁することができた。明治以降、この傾向が年とともに強まってきたことは否定できない。

男のあばら骨から女がつくられ、両者が一体となってはじめて生きていけるものとして記されている。すなわち創造は、第一作の男にはじまり、最終作の女で終わっているのである。

(アダムとイブの話)

・・・・・・・・・・・・・・・・(引用長いですね・・著作権のうえで問題あれば連絡ください。削除します

で、作者は「空気」から「水」へと発想を展開していきます。

今回の総選挙、麻生倒しの勢いはとまらないし、

本人も言いたい放題だった(気がする)し。

日本人は「空気」に敏感なんだと思います。

たとえば「黒い猫が横切った」とか「蛇を指差した」とかいうと、

縁起が悪くて、気分がすぐれなくなる、なんてことがあるかと思いますが、

そういう「空気」を読む力って日本独特なんだそうです。

仏教の影響が少なからずあるのかもしれません。

日本人って、宗教深くない、とはいわれますが、

家を建てるときはお払いしますし、

年末年始には、お参りにいったり、結婚式は大安だ、仏滅はだめだ、とか。

(宗教とは違うか・・)

私が読んだ本は、当時発売されたものなので、

正直フォントが読みづらくて・・・。

比較的最近の本を探して読み直そうと思います。

(だって、漢字多すぎない?)

こちらの本を紹介してくださった飯田泰之さんについては以下をご参考ください。

飯田さんのブログこら!たまには研究しろ!(6日のセミナー参加したかったなぁ・・・)

飯田さんのまじめな記事→ソーシャル・サイエンス・ハック