以前、野矢茂樹さんの本を紹介したときに、いまはどんな本を書いているんだろうと思いまして。
「語りえぬものを語る」
目次
はじめに
1 猫は後悔するか
2 思考不可能なものは考えられないか
3 世の中に「絶対」は絶対ないのか
4 真理の相対主義は可能か
5 霊魂は(あるいは電子は)実在しうるのか
6 行く手に「第三のドグマ」が立ちはだかる
7 ドグマなき相対主義へ
8 相対主義はなぜ語りえないのか
9 翻訳できないものは理解できないか
10翻訳可能でも概念枠は異なりうる
11そんなにたくさんは考えられない
12一寸先は闇か
13ザラザラした大地へ戻れ!
14意味がないという話
15意味はない、しかし相貎はある
16懐疑論にどう答えればよいのか
17語ることを、語られぬ自然が支える
18私にしか理解できない言葉
19本質的にプライベートな体験について
20語られる過去・語らせる過去
21何が語られたことを真にするのか
22何を見ているのか
23言語が見せる世界
24うまく言い表せない
25自由という相貎
26科学は世界を語り尽くせない
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少し前に名前をつけることに関する本を紹介したあとに、語りえぬものについてのテーマで恐縮です。
内容は難しいとはいえ、比較的平易な言葉で書かれています。しかし、抽象的なことについて語っているので、一度読んだだけでは、理解できたようでも、自分の頭にはあまり残っていなくて、何度も読んだほうがよさそうです。(Amazonのレビューでも「数回読んで理解した」という感想がいくつかありました)
過去への志向性をもつかどうかで想起と身体的記憶は区別されるが、その区別はただち に言語的記憶と非言語的記憶の区別に重なるわけではない。例えば、昨夜のコンサートの ことを思い出すとき、そこで思い出される演奏は非言語的であるだろう。それゆえ私とし ては、「想起すなわち言語的」とは言いたくない。だが、想起のポイントである過去への 志向性は、言語によってのみ生じる。ただ過去形を用いた言語使用だけが、過去世界を過 去として開く。大森も野家もそう主張するが、その点に関しては私もまったく同意した い。それゆえ、想起は必ず言語的な部分を含まねばならない。しかし、想起されることの すべてが言語的である必要はない。私は昨夜の演奏についてさまざまに言語的に思い出す だけでなく、その演奏の実際や会場の雰囲気を非言語的に思い出しもする。他方、「身体 的記憶はすべて非言語的である」と言えるかどうかについては、いささか微妙な点がち る。というのも、本文において私は、「非言語的に、夏の照りつける日差しの強さを思い し、蝉たちの声を思い出し、 それと同時に、言語的に「境内には誰もいなかった」と語る。それらはすべて、過去全体に触発された私の身体反応である」と書いたからである。
もちろん、私が生きているそこはつねに「いま」であり、私が向かい合っているのはつ ねに現実の事実である。だが、私はけっして静止した一時点を生きているわけではない。 いささか比喩的かつ曖昧な言い方になってもどかしいのだが、私の立っているそこは、静 止した点ではなく、運動の途上にあり、一定の方向を示しているのである。(生の瞬間は スカラー量ではなく、ベクトル量であると言ってもよい。) 私は、目の前のコーヒーカッ プに対して、これからそれを手に取り、コーヒーを飲もうとする構えのもとに、それを見 ている。われわれはそうした運動の方向に対する感受性を確かにもっている。その現われが、相貌にほかならない。(おそらく相貌は、行為ないし行為の意図と密接な関係をも ているだろう。だが、私はまだそうしたことを見通せていない。)
科学が世界を語り尽くせないのは、科学の限界のゆえではない。そもそも世界は語り尽くせないのである。世界は、私を驚かしうる。 実在は、自然科学を含め、言語によって語り出されたあらゆ る理念的世界からずれていく。 実在とは、語られた世界からたえずはみ出していく力にほかならな い。その力を自分自身に、人間の行為に見てとるとき、そこにこそ、「自由の物語」を語り出す余 地も生まれる。
書籍の中で紹介されていて気になった本。
厚みのある本なので、またじっくり時間をかけて取り組んでみます。
〈本の棚〉野矢茂樹著『語りえぬものを語る』語りえぬものを語るを語る
https://www.c.u-tokyo.ac.jp/info/about/booklet-gazette/bulletin/544/open/C-8-3.html