2021/8/9 「暗い時代の人々」

この「暗い時代」というのは、ナチスによるドイツ占領時のことです。

ハンナ・アーレント「暗い時代の人々」

以下抜粋。太字は私によるもの。

公的領域の機能とは、自分が何者であり、何をなしうるかを、良かれ悪しかれ、行為と言葉によって示すことが できる場を設定することで人間的事象に光を投げかけることであるとするなら、その光が 「信頼の喪失」 や「見えない政府」によって、またものの本質を暴くのではなくそれを縁の下に押しこんでしまう言葉 によって、さらには古き真実を護持するという名目であらゆる真実を無意味な通俗性の中におとしめる道 その他の説によって消されるとき、 暗闇は招来される。

私がここで用いようとしている広い意味での「暗い時代」とは、実際るべき斬新さを持った今世紀の は極悪非道な行為それ自体と同一のものではない。むしろ、暗い時代は新しいものでないばかりか、歴史上 まれなことでもない。しかしながら、昔も今もそれ相当の犯罪と災に見舞われているアメリカ史上では

未知のものであるかもしれない。最も暗い時代においてさえ、人は何かしら光明を期待する権利を持つこ と、こうした光明は理論や概念からというよりはむしろ少数の人々がともす不確かでちらちらとゆれる、 多くは弱い光から発すること、またこうした人々はその生活と仕事のなかで、ほとんどあらゆる環境のも とで光をともし、その光は地上でかれらに与えられたわずかな時間を超えて輝やくであろうということ

「暗い時代の人間性」レッシング考

※ゴットホルト・エフライム・レッシング (Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%9B%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%B0

歴史は公的領域の光が奪われた暗い時代がいくたびも訪れたことを示しており、そのとき、世界はきわめて曖昧なものとなるため、人々は自分の死活に関わる利害や私的な自由について当然の考慮を示すこと以上には、政治に要求することをやめてしまうのです。

無私の問題、あるいは他人に対する率直さの問題を提起せざるをえません。事実これらの事柄は、語のあらゆる意味で「人間性」の前提条件をなしています。この点では、喜びを共有することが苦痛を共有することよりも絶対的にすぐれていることは明らかと思われます。喜びは悲しみと違って話し好きであり、真に人間的な対話は単なるおしゃべりとは異なり、また他の人の快楽とかれが語る快楽に満たされた討論とも異なります。

栄誉を受けることに本質的にともなう世界との和合が、われわれの時代、また時代の世界状況においては決して容易な事柄ではなかったとするなら、それは今のわれわれにはさらに容易ならぬことです。

われわれのなかで、話すことや書くことによって公的生活に乗り出したものでさえ、公的場面における何かしら本来的な喜びからそうしたのではなく、また公的承認の証を受けることを期待したり、それにあこがれたりすることもほとんどありませんでした。

世界から放逐されるか、それともそこから退去してしまったような場合にも、われわれはどの程度まで世界への義務を負い続けるのかということです。

人間によって作られているからといって世界は人間的になるわけではなく、ただ世界が人間的となるのはそれが語り合いの対象となった場合に限ります。(略) われわれは世界においてまたわれわれ自身のなかにおいて進行しつつあるものを、それについて語ることによってのみ人間的にするのであり、さらにそれについて語る過程でわれわれは人間的であることを学ぶのです。

こうした時代には人々は互いに近づきあい、親交の温かさのなかに公的領域だけが投ずることのできる光輝と証明の代替物を求めようとするのであり、それが如何に強力な欲求であるかはすでにみてきた通りです。しかしこのことは、かれらが論争を避け、可能なかぎり対立を招きえないような人々とだけ関係を持とうとすることを意味しています

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「ちらちらとゆれる弱い光」を放てるようにと、今日も読書に勤しむのです。