2021/7/26 人生を走るRUNNER

副題:ウルトラトレイル女王の哲学

UTMBという超過酷な長距離走競技が世の中にはあるのですね。スイス・アルプスを走ります。その連覇をされている方の本。

UTMB(Ultra-Trail du Mont-Blanc )のサイト

https://utmbworld.com/

こちらを見ると日本人でも登録されている方がいるのがわかりますね。

List of Registered

https://utmbmontblanc.com/en/page/108/the-2021-runners.html

走る、ということの意味、について考えたくて手に取りました。「人生を走る」というタイトルがぴったりでした。

まだ5キロ走る習慣がついたところなのに、とんでもない本読んじゃった、って感想です。

長いですが、以下抜粋。太字は私によるものです。

本を書く理由はさまざまだ。何かを教えるため、情報を与えるため、知識を伝えるため、 説得するため、納得させるため、楽しませるため、おもしろからせるため。でも、わたしは そんな大それたことをしようなどというつもりはない。

この本は、ただ物語を伝えるために書いた。 長い距離を走ることは、これまでのわたしの物語の一部だ。こうして言葉をつづることも。 この言葉を読めば、それはあなたの物語の一部にもなる。誰の物語にも、共通する要素があ る。これまでに長い距離を走ったことがあるかどうか、これから走ることがあるかどうかに かかわらず。

わたしたちは校庭の硬いアスファルトの上を走り、運動場の柔らかい芝生の上を走る。 家 へ帰る途中には歩道のでこぼこを感じ、波打ち際では足の下にある砂の弾力を感じる。わた したちの走りは、幸せな気分が高まって外にあふれ出したものだったり、怖くなったときに なじみのあるところに駆け戻るためだったりする。

でも、大人になるにつれて、かつては知っていたことをすっかり忘れてしまうことがあま りにも多い。 走らなくなるか、走るとしても「エクササイズ」になってしまう。走りなさい と誰かに言われたり、走らなきゃと自分で思ったりするものになる。 価値とか効果とかいっ た観点でられるものと化し、感情の発露ではなくなってしまう。

けれども、わたしたちの忘れっぽさにもかかわらず、記憶の糸がかつてよく知っていたこ とにしっかり結びついていることがある。その細いつながりのおかげで、成長して大人にな るまでのあいだも、わたしたちは走り続ける。 走ることとは何かをまだ知っているからだ。 もう無心に走ることはないけれど、子供時代のあの感覚を、まだ幾分かは覚えている。走ることが驚きや好奇心に満ちていたときのことを。世界はわたしたちの前に広がり無限の可能性に満ちている、と無邪気に信じて、その瞬間を生きていたあのころのことを。

人生とは、自分の存在意義を求めることだ。 アラン・ワッツが雄弁に語っているように、 「どのような技であれ、完璧に遂行するには、こうした今という永遠のときの感覚を自分の で感じなければならない なぜなら、それが適切なタイミングを見出す秘訣だからであ る。焦ってはならない。 ぐずぐずしてもいけない。出来事の流れを、音楽に合わせて踊ると きのように、ただ感じ取るのだ。早まっても遅れてもいけない。早まるのも遅れるのも、ど ちらも現在に抵抗しようとすることなのだ」。

人生のすべては、今この瞬間に凝縮されている。でも、ときには、今この瞬間が常にわた したちとともにあることを認識するために、極限まで行かなければならないこともある。最 大のは、当然ながら、あがくことだ。 わたしたちがそれを探し求めているかぎり、見る ことはできない。人生のフローを感じるには、今この瞬間に完全に存在しなければならない それはわたしたちにただ起こるのであり、無理やり引き起こすことはできないのだ。

そして、空に向かって上る長い道で、自分が何を思い出させられているかに気づいた。 世界はあるがままであり、わたしはわたし自身だ。雪が降るときは降る。風が吹くとき は吹く 太陽が輝くときは輝く。 いくらわたしが要求しても、わたしにとって必要でも、 わたしがそうなってほしいと望んでも、そのとおりにすることはできない。すべてある がままなのだ。

でも、それが人生の魔法なのだ。

わたしは流れに任せることを学ばなければならない。流れに任せて上り下りし、曲が りくねった道をたどり、奥まったところに入り込み、開けた場所に出て、自分のすべて をさらけ出し、必要ならば逆立ちする。自分が真実だと信じていることのために闘うこ とはしないと言っているのではない。真実がわたしの望むとおりではないこともある、 というだけだ。そうあってほしいと思う姿に合わせて世界を曲げたり形づくったり折り 畳んだりすることはできない。そうではなく、わたし自身を曲げたり形づくったり折り 畳んだりして、人生がわたしに投げかける道のりをたどっていかなければならない。物 事が厳しく困難に感じられるときも、穏やかで容易に感じられるときも。

孤独とは、必ずしも他者から離れて生きることではない。むしろ、 決して自己から離 れずに生きることである。他者の不在ではない他者が一緒かどうかにかかわらず、 自分自身が完全に存在しているということである。 コミュニティーとは、必ずしも他者 と顔を合わせて生きることではない。われわれは互いにつながっているという認識を決 して失わないことである。 他者の存在が問題なのではない―われわれがひとりかどう かにかかわらず、人間関係の現実に完全に心を開くことである。

わたしは、走ることを、探索し、学び、生きるための道具として用いることが多かった。 そしてバランスを保つ点にたどり着くことができた 身体的にも、精神的にも、感情的に も走るか否かは問題ではない。 大切なのは、自分自身の物語をいっそう深く探らせてくれ るような何かを見つけることなのだ。

わたしの意識は次第に内面に向かう。 感覚は遠のき、外界からの刺激をすべて遮断し、 この先の道も、視界に入る狭い範囲以外は目に映らない。前に進むことだけに集中し、 わたしの呼吸のリズムに乗る。 世界も、時間のすべてもこの一瞬に凝縮されている。今 この瞬間に。ほかのものは何も存在しない。ほかのことは何も重要ではない。かつて存 在したものも、これから存在するものも、すべてはこの一瞬に、そしてそのなかで動き 続けるわたしの苦闘に包括される。 絶対的な集中力。それが、旅のほかの部分からわた しを切り離す。 わたしは自分のしていることに、 苦闘しているこの瞬間に、どこまでも 専念する。

カトマンドゥに戻る長い道の、あの最後の部分のどこかで、わたしは、走ることが自分に とってどのような意味を持つようになったか、もう少しで理解できるところまで近づいた。 それは、存在するという圧倒されるようなあの感覚、その瞬間に深く根ざしているというあの感覚。そして、その瞬間に在ることが自由なのだ。

既知のことも未知のことも、どちらも本当に恐れの対象になり得る。

あなたが言ったように、「頭のなかにあることはほとんどすべて、突き詰めていけば何かに対する恐れということになる、そう思わないかい? 自分の恐れに向き合い、それについて書き留め、乗り越えるためにゆっくりと前進し、またはそれが何であっても心を開くのは 簡単なことじゃない。 楽しいじゃないか!

確かにそうだ、なぜなら人生で最大の冒険は失敗することだからであり、そのわけは、そ んなときこそわたしたちは生き、生きるということはどういうことかに気づくからだ。わた したちは、わたしたちの恐れではない。もし恐れに向き合うことができ、 恐れがわたしたち を通り過ぎて去っていくに任せることができれば、恐れはただ現れては去るだけになる。わ たしたちは、恐れを見つめ、気にすることはあっても、恐れは自分たちを規定するものでは ないということを理解し始めるのだ。

この本を読んでウルトラマラソンに興味を、、とはならず、私は書くことを続けようと決意しました。

エピローグ

本の核心には、書くという行為そのものを通してのみたどり着ける。書くこと自体が、わ たしを自分自身の奥深くへと向かう旅へと連れ出し、ほかの人たちとの関係やわたしを取り 巻く世界との関係に分け入らせてくれた。この物語は、わたしが何年も前に思い描いた、長 距離走についての素朴な物語とはまったく異なるものに発展した。書き進めて物語が形にな っていくにつれて、それはわたしの頭と心と言葉の対話になった。愛についての瞑想になっ た 走ることへの愛と、人生への愛。ここにつづった言葉は、わたしにとっては時間をと らえたスナップ写真であり、あなたにとってはまっさらなキャンバスとなって、その上にあ なた自身が理解したことを描いていける。

これは、わたしの発見の旅、探索の旅、そして再発見と気づきの旅の物語だ。

走ることが、わたしがその旅を行う手段となった。けれども手段はそれほど重要ではなく、 大切なのは、どのようにわたしたちが旅をするか、そしてどのようにそれを周囲の人たちと 分かち合うかだ。

すっきりとした結末を示すことはできない。なぜならわたしの旅はまだ続いているからだ・・・・目的地はなく、旅こそがすべてだ。走る人も走らない人も、レースに出る人も出ない人も、やはり旅の途上にある。これはあなたの物語でもあるのだ。

ちなみに冒頭で紹介したUTMBのレース。今年はちょうどあと一ヶ月後。まだ応募できるみたい。ボランティアも興味あるけど今年は・・・。自分のやりたいことリストのひとつに入れておきます。

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