所詮、この世は無茶苦茶。丸山健二『生きるなんて』

生ぬるい生き方したい人は読むの禁止!

「学校なんて、仕事なんて、親なんて、友人なんて、生きるなんて、死ぬなんて」どれかひっかかった人は読んでみるといいですよ。

以下抜粋。

生きるなんて

かれらがまずまずの大人になれたのは、あくまで外的なストレスを受けたからなのです。彼らは自ら進んでその道を選び、おのれを鍛え上げたのではありません。殺すか殺されるかの戦争や、敗戦後に巻き込まれた餓死寸前の混乱といった最悪の環境によって、好きも嫌いもなく

試練と訓練を余儀なくされたせいで、底力を発揮せざるを得ない状況に立ち至り、ために、前向きに生き、現実との折り合いの付け方を習得し、こっすからい処世術のあれこれを学び取ることができ、その結果として今日のかれが存在するのです。

暗黒の時代によって切羽詰まったところまで追い込まれたことによって、どうにかおとなの形を整えることができたかれらに、若い世代を前にして「おまえたちはだらしがない。いつまで子どもをやってるんだ」とまくし立て、胸を張ってみせる資格など、本当はありません。

あなたがどの道を歩もうとも、それはあなたの自由です。

ただし、自分が今どの道を選んで通っているのかという自覚だけはきちんと持っていたほうがいいでしょう。そうすれば楽な道を歩んでいる者が、ある日突然、人間だからこそ歩める道へと一歩を踏み出すきっかけをつかむかもしれません。

あるいは、自身の目に映ずるものだけを信じ、自ら精神を鍛えて自立する道を歩んでいる者は、その足取りがよろめきそうになった際に、素早く姿勢を立て直すことができるかもしれません。

あるいはまた、真に人間らしい生き方とは何かを自身に厳しく問いかけ、ついにその答を出し、それを実践できるような偉大な人物になり果たせているかもしれません。

夢なんて

あなたは、夢という浮ついた言葉に酔いしれていませんか。

あなたは、夢の一字に頼りすぎていませんか。

あなたは、夢という幻にしがみついて現実に背を向けていませんか。

あなたは、夢が夢のままで終わることを、本当は知っているのではありませんか。

夢とは、そんなに軽くて美しいものではありません。本当の夢は、重くて、しかも暗いのです。重さと暗さが伴っているかどうかによって、夢の真贋(しんがん)と価値とが決定するのです。

本物の夢に向かって自分の才能を開花させようと思ったなら、自立の道を歩むしかほかに方法はありません。

仕事なんて

(自営業の)世界に首を突っ込んだときから、一日二十四時間が、一年三百六十五日が、そして一生涯がまるまるあなたのものとなります。あなたはもう誰からもつべこべ言われず、指図もされない、わが人生ここに在りとしみじみ実感できる道へでたのです。

自営業においてもっとも大切なことは、ひとえに自立した人間像に向かって邁進できるかどうかです。勤め人の世界に老いては妨げとなったそれが強く求められるようになるのです。

親なんて

「願いはただひとつ。それは、おまえが誰にも頼ることなく、おまえ独りの力で生きていけるようになることだ。親子とのあいだに、恩などという打算の悪臭がぷんぷんする、黴だらけの尺度を挟むつもりは毛頭ない。どうしても恩という言葉を使うとしたら、おまえを育てさせてもらった喜びに対する恩であろう。それだけだろう。いっぱしのおとなになる入り口に差し掛かったならば、おまえは親から離れ、家から出ていき、おまえの人生を好きなように生きるがいい。親のことなどいっさい気にするな。親は親で、懸命に闘いながら親の人生を何とかやっていくから、おまえはおまえが目指す道に向かって存分に羽ばたくがいい。おまえの足かせになるような、おまえの人生を停止させるような、そんな親になるつもりはない。どうしようもなくなった場合の身の処し方くらいはよくよくわかっている。他人の世話になって生きるのは、もはや生きていることにはならないのだ。そのとき、おまえにとっての親は過去の思い出にすぎない存在だろう。それでいいのだ。前進がさだめの命を全うしようと思うなら、決して後ろを振り返るな。そしてお前が親になったときも、これとそっくり同じことをわが子に言い伝えるがいい」

国家の法律以前に、自分の法律を持ち、それを優先させることができた、完全に自立した親を誇りに思い、お手本にしようと意を決した子どもがきっといるはずです。かれらこそが、人間としての本当の親子であったのです。

生きるなんて

意のままにならない世界だから面白いのです。

難問だらけの世界だからこそ達成感が得られるのです。

思うようにならないことだらけだから死ぬという答を出していたら、命が幾つあっても足りません。

この世を生きる意味など、あなたのためには用意されていません。あなたがかりか、誰のためにもそんなものはないのです。早い話が、存在するのに意味など無用だということです。意味なしでも存在できるのが存在というものなのです。

必要に迫られてしぶしぶ腰を上げるような生き方をしてどうするのですか。

せっかくの夢を前にして、難易度を計ってどうするのですか。

することがいちいちなまぬるく、知識に依存することしか頭に浮かばず、人交わりが極端に少なく、(略)反逆の精神どころか反抗心のかけらもなく、細分化されていく一方の社会にどこまでも調子を合わせ、権威や権力にあまりにも弱く、五体満足で、食べるにも困らないというのに死にたがり、それも、独りで死ぬのは寂しいという理由で、いっしょに死んでくれそうな仲間を募る体たらくー。

それしきのことで、死にたいというのなら勝手に死ねばいいのです。そんな不甲斐ないことでは、この世に身を置き続けることなどどうせ無理でしょう。

80歳、90歳、百歳と生きるにつれて、思いも寄らなかった自分に変わっているのかもしれません。もちろん社会や時代もです。

あなたはそうした変化のあれこれを寿命が尽きるまで見届けたいと思いませんか。

あなたはそれを見るだけでも生きる意味と価値があると思いませんか。

あなたはその変化がこの上なく悲惨なものであっても、よしんば地球最後の日を迎えるような大事件であっても、奇跡的な確率で生じるそんな機会に巡り会えただけで幸運だったと思いませんか。

自分を頼りにして生きていくことほど痛快なことはありません。頼れるような自分に改造してゆくことほど面白いことはありません。

所詮、この世は無茶苦茶です。従って、生き方に決まりというものはないのです。これはあなたの人生であり、あなたの世界です。あなたが在ってこその、この世です。あんたの消滅と同時にこの世も消滅します。