両親は健在。
とはいっても。
親の同級生が健在とは限らず、
60歳も過ぎると、
「同級生が亡くなった」
というようなことも、
一度や二度ではなく経験するようになるようです。
平日の昼間に父親から携帯電話に連絡。
「もしや、身近で不幸が!?」
と思い、慌てて電話に出るものの、
「自宅にかけたら、番号変わってたみたいで」
って。IP電話にしたっていったじゃん。
その日は帰宅が24時過ぎてしまい、
時間がなかったので、翌日電話。
「いやいや別に用はないんだけど、
どうしてるかと思ってねぇ」
と、まぁそんな感じの会話。
「ランニングマシン買おうだなんて、
マンションで音が響くんじゃないだろうか」
とか、
「東京マラソンは走れないんだろう?」
とか。
あまり会話もないので、自然と、
「大殺界だとか言ってないで、
早いところいい人見つけたらいいんじゃないか」
と結婚の話。
なんやかんや話しているうちに、
プッツンした、私が。
あまりにもプッツンして電話機も壊すという始末。
ついには自己嫌悪。
で、母親に電話したら、
非常に納得のいくことを言われた。
私には二人妹がいますが、
二人ともあんまり働く気がない。
「王子様を待っている」というわけじゃなく、
朝 起きる気力がない、、といいますか。
30前後の女が三人もいたら、
親はご飯とか楽して食べたいわけですよ。
それが、ぐーたらやってるわけで。
そういう生活で疲れて、
電話したんじゃないの、って。
「あんたが実家に帰れば?」
ってのももっともだというのはわかっているのだけど、
まだ東京でやっていきたいと思っているので。
(こういうの自分の欲だとか言われるんだろうけど、、。
同じ地元の人が東京でがんばってるのを見て、私も励みになっているので、、)
30過ぎてようやく気付いてきたことがある。
自分が社会人になりたてのころ、
今の自分と同じくらいの年の人はすんごく大人にみえた。
今の自分は50歳ぐらいの人を見て、
あんな大人になりたいなぁと思う。
30なんてまだまだ通過点。甘い甘い。
どこかにたどり着けば、
そこがゴールってわけでもなくて、
ひとつクリアすると、
また次のゴールが見えてくる。
(ここでもフルマラソン終わった後に似たようなことかいてますが)
親は私にとってはずーっと親なもんで、
親が、初めて『親』という役割をもったことに私は気付かない。
ずっと自分より大人なので、
彼らが初めて向かい合う「老い」というのもわからない。
「masa が東京で元気にやってるから、
お父さん 声聞きたかったんじゃない?」
って母は強し。
そんな母も現在風邪っぴきなので、
「朝はにんじんジューズ、寒かったらしょうが紅茶。
ご飯は玄米にして、野菜をたくさんとったらいいわ」とついお節介。
3月にはお墓参りいこっと!