本日は、昨日からの雨のため中止になってしまった
高尾山ランニング練習。
手帳をみていたら、ある予定があったことに気づいて、
今日は午後から国際シンポジウムに行ってきました。
場所はこちら。
リバティータワーの一階では、
オスカーワイルド の出版記念イベントが開催されていました。
中小企業診断士の試験会場にもなっていたようです。
わたしはその隣の大学会館にて。
第三回 国際シンポジウム
先週の金曜から開催されていたシンポジウムのため、すでに資料がたまってしまいました。
資料を読み通して、たぶん一番多かったキーワードが、「呼びかけ」。
一番興味深かった(理解できたのが)のが、Paul-Antonine MIQUEL(Nice大学) 氏の論文。
意欲によって望まれるものは、出発点においては認識できないものである。
「自我の理想を作り出すには、過去に現存した歴史的形象としての理想的な自我が必要である。そしてこの理想的な自我は、ここでは「尊崇され、称賛された人格」に他ならない」
「自我とは一つの思考の出来事にほかならない」
7月にドゥルーズの『ニーチェ』を読んでおなかいっぱい、と思っていましたが、もっと勉強しないとなぁ、と思いました。
ドゥルーズとベルクソンの対比を論じていた九州産業大学の藤田先生による論文も面白そうでした。
たとえば、こんな例文が紹介されていました。
人は働くとき、絶対的な孤独の中にあらざるをえない。
・・・ただ、それは極端ににぎわう孤独(solitude extremement peuplee)なのだ。
孤独をにぎわせているのは、夢や幻想、未来の計画ではなく、出会いである。
絶対的な孤独の底からこそどのような出会いも可能になる。
人々とであるだけでなく、さまざまな運動や観念、出来事や事物とも出会う
ドゥルーズ 「対話」より
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ほかに、とても共感したのが次の主張。
ベルクソンの一節「やがて自分のものになるはずのことばは、すでに内部にその反響を聞いていた言葉なのである」わずかであれすでに見いだしているからこそ探し出せるのであり、かすかであれすでに反響を聞いているからこそ自分のものにしようと思うのである。「あんな風になりたい」という憧れに身を焦がし、決心を固め、行動を移す人は、模倣者であると同時に、すでに少しだけ創造者と化している。動的行動の発生は、事後的、遡及的にしか見出され得ない。いかなる出会いにも言えることだが、奇妙な因果性がある。
本当に出会うためには、
すでに出会っていたのでなければならないのだ。
こちらのシンポジウム、ほとんどフランス語、ときどき英語、ときどき日本語
という中で進んでいきました。
日本語の資料を見ても、理解できる内容が6.7割という中、
ついていくのは大変でした(というより、フランス語にはついていけませんでした。
なぜ笑いが起こっているのか、というのを時差を感じながら・・でした)。
大学時代の教授にお会いしたのも、
卒業以来でしたので、すっかり私も「昔の生徒」。
かなりメモしていたのですが、
どこまでこちらに書いていいのか判断しかねますので、
今日はこの辺で。
(ラストのパーティーには出席できず、すみませんでした。
かなり頭使って聞いてたので、知恵熱気味でした・・・)
今週の休みは本当よく学んだなぁと思う2日間でした。
土曜日は、目を開けたまま寝ちゃったりしてたんですがね・・