出版社 ディスカバー21さまのところから出ている本の紹介を見ていたら、
「夜と霧」が2度も紹介されていました・・
学生時代に読んだときは、「人はいかにしていきるべきか」「人の尊厳とは」みたいなところに目がいってました。
じっくり読み返して感じた。
これは・・・希望の本です!
(こちらのブログタイトルまねです。)
こちらの名作は、精神学者VEフランクルによってかかれたアウシュビッツ収容所での記録です。
フランクル 「夜と霧」
(夜は画像だせないことが多い・・このブログ)
以下、心に残った文章を引用
「なぜ生きるのかを知っている者は、ほとんどあらゆる如何に生きるか、に耐えうるのだ」
収容所生活のすさまじさに、内的に抵抗に身を維持するためには何らかの機会がある限り囚人にその生きるための「何故」をすなわち生活目的を意識せしめねばならないのである。
すなわち、人生から何をわれわれはまだ期待できるのかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれか期待しているかが問題なのである。そのことをわれわれは学ばなければならず、また絶望している人に教えなければならないのである。
すなわち、われわれが人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われた者として体験されるのである。人生はわれわれに毎日毎時間問いを提出し、われわれはその問いに、詮索や口先ではなくて、正しい行為によって応答しなければならないのである。人生というのは結局、人生の意味の問題に正しく答えること、人生が各人に課する使命を果たすこと、日々の務めを行うことに対する責任を担うことに他ならないのである。
個々の人間を特徴づけ個々の存在に意味を与える唯一性や独自性は創造的な仕事に対してあてはまるばかりでなく、また他の人間とのその愛に対してもあてはまるのである。この各個人がもっている、他人によってとりかえら得ないという性質、かけがえのないということは、 意識されれば 人間が彼の生活や生き続けることにおいて担っている責任の大きさを明らかにするものなのである。
待っている仕事、あるいは待っている愛する人間、に対してもっている責任を意識した人間は、彼の生命を放棄することが決してできないのである。彼はまさに彼の存在の「何故」を知っているのであり、 従ってまた「殆どいかなる如何に」にも耐え得るのである。
自分が誰かの希望になるなんて言う前に、
まずは自分の中にしっかり希望を根付かせたいと思いました。
これ、愛する人が今そばにいない人(遠距離とか、かしら。片思いとか)には、また別の気づきがありますよ。学生のかたはぜひ夏休みに読む本のひとつにくわえてはいかがでしょう。
待つということについて。
ニーチェ「悦ばしき知」より
(神は死んだ。われわれが神を殺したのだ!という叫びのあと)
こうした行為の偉大さは、われわれには大き過ぎる・・・。ただ単にこの偉大な行為をやってのけるというのにふさわしい様子を待つためだけにでも、われわれ自身が神々にならなければならぬのではなかろうか。これほど壮大な行為はかつてなかった。 それでわれわれの後から生まれてくる者はみんな、どんな人でも、この行為のせいで、これまでにあったいかなる歴史よりも一段高い歴史に属することになろう!
「行動する」ということ、自分のなかに「希望」をみつける(もつ)ということ、
それには何より、健全な身体がもっとも大切です。
とりとめのない感じですが、しばらくしたら自分の言葉になるでしょう。